自己物語論に立ち返る

1/16(木)

前日の夜中から朝までバイト作業を続けていた。久しぶりにプログラミングに取り組んでいた。方向性が明確になりひたすらキーボードを叩いている瞬間は没頭できていて楽しいとすら思えるのだがこの案件については業務知識があまりに不足していて正解がわからずに手探り状態が続いてなかなかに辛かった。プアな設計書にも腹がたった。

午後から京都で打ち合わせがあったのでプログラミング作業をなんとか片付けて昼前に出発したがどう考えても遅刻しそうだった。止む無く新大阪まで出て新幹線を使って京都駅に向かった。あと15分早く家を出ていれば在来線で間に合ったのに何をしているんだかと自己嫌悪に陥ったが、新大阪-京都間の移動に新幹線を使うことに対す一種の特別感に気持ちが高揚するところがあるのは認めざるを得なかった。悪い習慣にならないように気を付けなければ。打ち合わせには間に合った。今日も特に何をするわけでもなく終わった。また別のバイト先から問い合わせがあったので、打ち合わせ後は京都駅前の商業施設内にあるカフェに入って少し作業した。終わると17時前で、帰宅ラッシュが本格化する前にJRの普通電車に乗って時間をかけて大阪まで戻った。

京橋でカレーを食べて腹ごなしに自宅まで歩いて帰ることにした。24時間近く寝ていないはずなのに眠気はあまりなかった。ディスカウントショップに寄って缶チューハイのようなものを買って歩きながら飲んだ。今日もまたビジネス街を人波に逆行するように歩いた。

www.ireallydontwantto.work

最近度々実施されるこの行為はいったいなんなのだろう。わたしは酒自体はたいして好きではない。何を求めてこんなことをするのか。自分でもよくわからない。むかし、それこそ学生の頃などは飲酒自体に格好良さを見出していたこともあったけれどさすがに今はもうそんなことは無いと信じたい。確かに酒を飲むと(歩きながらだと特に)体がふわついて気持ち良い感じがあるのでそれが目的なのか。ゆらゆらと街を漂う心地よい感覚。でもそれだけではない気がする。この寒い中で行う路上飲酒、自分の中に一種のストイックさすら感じる。なんらかの訓練のつもりなのかも。無意識的に持っている在りたき自分の像に近づくための訓練、あるいは矯正。飲酒を通した先の物語、によって規定される自己像。自分の極めて浅はかな考えが暴露されそうで深く考えるのは怖い気がする。