程度問題

7/13(土)

ウィンブルドンの準決勝フェデラー対ナダルの試合を観終わったのが深夜2時くらいで、そこから明け方までバイトしていた。作業の進捗は思わしくなかったが一定の稼働時間を確保できたので良しとする。しょせんは時給で働く身なので、割り切って考えれば成果うんぬんよりも稼働に重きを置いても良いかと思う。そんなことばかりやっていてはすぐに契約打ち切りになりそうな気もするが。いずれにせよ、労働しないとお金は入ってこない、が労働すると精神が摩耗する。

何ごとも程度の問題として捉えるやり方は私の根幹を成す思想のはずだったし、大抵の事象に対しては有効に機能して私を助けてきたと思う。労働にも同様の考えを敷衍して、フルタイム労働は自分にはもう不可能だとわかっても、パートタイムのアルバイトに移行して労働時間を削減することで労働に対して感じる苦しさを最小化できるものと期待していた(最低限生きていけるくらいの所得を得つつ)。しかしどうやら、こと労働に関してはこの考え方は通用しないのかもしれない。もはや私は一分一秒たりとも労働したくない。週にたったの十時間しか稼働しなかったとしても、それ以外の時間も残タスクに対する懸念や打ち合わせの予定などの「労働の予感」が頭の中の一定割合を占めてストレスを感じる。自由な時間を楽しむことができない。これはもう程度の問題ではなく、「ゼロか100か」の話ではないのか。私が心の安寧を得るには労働は完全にゼロになる必要があるのではないか。労働しないとお金は入ってこないわけで、そうなると生きていけないけれども。

夕方、雨が降る中外出して京橋で知人と落ち合い焼き肉を食べた。私にとってほとんど唯一わりとなんでも話せる間柄の人間なので、”労働の程度問題”についても思っていることを話してみたら、「肉体労働でもしてみれば?」と言われた。

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焼き肉はおいしかった。おいしいものを食べている時だけは労働の苦しみから完全に解放されている感じがする。